あの夜、たった一度きり、同じ時を刻んだ人が自分に残していったのは、
かつての想い人と同じ香りの移り香だけだった。
■■あの日あの夜出逢ったことが過ちだった 2■■
どのくらいの時が経ったのか。
広いその胸に抱かれている間、自分は一体何を話していたのか…。
ただ、鮮明に覚えているのは、彼が、泣いている自分を、痛そうに見つめて呟いた一言に、
縋りながら頷いたことだけ……。
『一人で泣くのは、寂しいでしょう?』
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高層階から見下ろす夜景は、濡れた視界に淡い光を放っていた。
窓枠に腰かけた身体を支えられるように抱き寄せられ、上向けられた唇を啄ばまれると、
仄かに煙草の味が口内に広がる。
―そういえば、「彼」にも喫煙癖があった、と、呼び起こされた記憶の断片は、
苦く甘く混じる唾液と共にのまれて消えた。
縋るように伸ばした掌を、大きく温かな掌で包まれ、安心してその手を引き寄せる。
視界の端を横切った銀色の影に、刹那驚愕し、そして思考が止まった。
―結婚指輪……
自分の中の孤独を埋めることに夢中になりすぎて、目の前の男が妻帯者だということに気づかなかった。
彼に「愛する者」が居る可能性など考えても見なかった――。
ベッドに横たえられ、肌蹴たガウンの隙間から、濡れた肌に優しく口付けを落とす男の唇をそっと遮り、
ゆっくりと身を起こす。
「……やっぱり…ダメです……」
―こんなことをしては、傷つくヒトが、貴方にはいらっしゃるんじゃないですか?
男は、ルームライトに照らされた自らの手を見下ろし、その指からそっと、指輪を外した。
至極丁寧に。とても大切なものを扱う手つきで、それをベッド脇の小机の引き出しに仕舞うと、
ゆっくり悠へと向き直る。
「不実な男だと思いますか?信じてはもらえないでしょうが、
結婚して25年になりますが、今まで一度も妻を裏切ったことはないんですよ。」
「だったら…尚更っ…!」
「―でも、どうしても先刻の貴方を放っておけなかった。
あの時、貴方の手を離してしまったら、貴方は泡にでもなって消えてしまいそうな風情でしたからね。」
悪戯っぽく微笑して、そして男は悲しそうに悠を見つめた。
「まるで、悲しい御伽噺の主人公のようでした…。
貴方は今、幸せな御伽噺の中に居ると思ってみては如何でしょう?
―そう。貴方は、貴方の想い人と、幸せに結ばれた主人公で…
私は、貴方の想い人…そう、思ってみてはどうですか?
私のことは好きな名前で呼んでくださってかまいませんから。
―私は、貴方を助けたい…ただ、それだけなんです。」
「…そんな…」
「ほら―目を閉じて…貴方の想っている人を心に描いてみて。
貴方の愛する人が貴方に触れることを想像してみて。
吐息が貴方の肌を熱く焦がしていくところを想像して…」
閉ざされた瞼に淡い口付けを落とし、男は悠の肌を再び探っていく。
無骨な指が這わされる肌は、熱を帯びて行き、
鼻腔を擽る彼の紫煙の沁みこんだ体臭は、『想い人』のそれを良く似ていて―悠の脳裏を熱く締め付けた。
「あ…っ…っ…」
「そう。…ほら、こんなにとろけてきた…」耳朶に吹き込まれた低く甘い囁きは、悠の理性を狂わせるのに十分な媚薬となっていた―。
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言葉も愛撫も口付けも―。
男はとても丁寧に、そして優しく悠を責めつづけた。
幾度も悠を高みに押し上げては、泣きながら、時には絶叫と共に果てる悠を腕の中へ抱きこみ、
熱が引くのを根気強く待って、そしてまた、愛撫の唇を落として―。
最後、意識を喪ってシーツへ沈み込んでいった時には既に、
煌く夜景を映し出していた窓は、朝焼けの白みがかったオレンジ色に変わっていた――。
一面に青空を映し出した窓から入る光に、目覚めさせられた悠は、一瞬混乱したものの、
直ぐに昨晩の出来事を思い出し、慌てて視線を巡らす。
男は、既に部屋を去った後のようだった。悠は、微かに痛む腰を持ち上げてベッドから降り立つ。
ゆっくりと部屋を見渡し、他人の気配を探るが、部屋には自分以外の人間の気配はない。
声をだして、男の名を呼ぼうとして、彼の名前すら聞いていなかったことに、
今更ながら気づいた。
「……夢…だったのか…?」
呟いて、小さく首を振る。
違う―。確かに自分はこのベッドで、幾度も幾度も快楽に押し流されて、
涙を流して彼を乞うたのだ。
自分の肌から微かに香る、煙草の匂い―、それがまぎれも無い真実の証明。
男は、その部屋に何も残さなかったけれど、
自分の肌の内側には、彼が此処に居た証明が確かに刻まれていた。
自分が乱れたベッドの隣―いまだきちんとベッドメイクされたまま―のベッドの上に几帳面に畳まれたガウンに腕を通していると、
香ばしい香りが部屋中を包んでいることに気づいた。
昨夜は眩いほどの、都会の夜景を映し出していた窓の傍に設置された小さなテーブルの上には、
まだ湯気を立ち上らせている朝食がところ狭しと並べられていた。
男が手配してくれたのだろう、朝食を温かいうちに腹に入れる。
久しぶりに口にしたクロワッサンは、ちゃんとクロワッサンの味がしたし、
スープも、サラダも、卵も―悠の味覚と腹を満たしてくれた。
もう何日も―調理班長には申し訳ないことだが―、食事の「味」を「味」と認識したことなどなかったから。
ホテルの―しかも朝食の―、決して豪華とはいえない食事を、悠は噛み締めるように味わった。
朝食を終え、テレビを点ける。チェックアウトまでには未だ少し時間に余裕がある。
ニュース番組の時刻表示を目にしながら、シャワーを浴びようか逡巡して、結局、そのまま服を着た。
肌に残った移り香を消し去ることを躊躇って。
もう少し―貴方と同じ香りに包まれていたいんです。城教官―。
あと、少しだけ…せめて、あの場所に帰るまで。
上着を羽織って、テレビを消す。
沈黙が降りた部屋に視線を巡らせ、そして、扉を開けた。→
この部屋の中での出来事は、悠にとってはまるで、一夜の御伽噺のような出来事で、
一歩外に踏み出せば、また、日常が始まるのだ。
ただ、昨日までの日常ではなく、―新しい…そう、新しく始まる日常。
息を吸い込んで、カーペットの色の変わる境界を踏み越えた。
まるで、新しい自分に生まれ変わったような、そんな気がしていた――。